「道理で味がいい。味噌はちくまに限るのう」
1885年に初演された歌舞伎演目「四千両小判梅葉」で登場するセリフ。江戸時代における庶民の味に言及したものだが、その味噌を醸造していたのがちくま味噌だ。
「それを書いた河竹黙阿弥はうちの醸造所の近くに住んでいて、ちくま味噌の味に慣れ親しんでいたそうですよ」と、ちくま食品 社長の竹口友章さんは裏話を教えてくれた。
1688年、松阪出身の商人である竹口作兵衛義直が興した乳熊屋作兵衛商店が大本。大豆や米など北関東産の穀物が運搬される隅田川に近いことから、日本橋や茅場町を拠点とし、味噌醸造や米穀店、さらには回船問屋や両替商など事業を手広く展開。7代当主は国学者・本居宣長の門人録に名を連ねたり、8代当主は勝海舟の支援者で頻繁に交流していたり、西郷隆盛が一時竹口家の別邸に仮住まいしていたりと、さまざまな歴史的事実が事業の繁栄ぶりを物語っている。
「勝海舟さんや西郷隆盛さんの子孫の方々とは、今でも親しくさせていただいています。歴史的な話でいえば、忠臣蔵でおなじみの赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りを果たした翌日の未明、芝泉岳寺へ引き上げる途中だった彼らを店に招き入れ、甘酒粥を振る舞ったというエピソードも残されています」
赤穂四十七士の一人、大高源吾が店の棟木に「味噌四海遍し ちくま味噌」と書き残し、その後江戸の名所にひとつになったという。残念ながら関東大震災で消失してしまったが、代わりに「赤穂義士休息の地」と刻んだ石碑を建立し、今も忠臣蔵ファンが立ち寄るスポットになっている。
その後は事業を整理していき、昭和の時代には味噌一本に集約。偉人から庶民まで、江戸の人々を魅了したちくま味噌の魅力を伝えている。
そもそもちくま味噌と他の味噌とは、何が違うのか? 商品開発に携わる営業本部長の伊藤達さんは、まろやかさとコクを兼ね備えたところにあると自信をのぞかせる。
「当社の代表作である『江戸甘味噌』は、岡崎の八丁味噌のコクと、京都の西京味噌のまろやかさを兼ね備えているのが特徴です。味噌は主に大豆と米麹を使って醸造するのですが、『江戸甘味噌』は大豆に対して米の割合を高めることで、米糀のほのかな甘さと旨みを楽しめるようにしています。また塩分も控えめで、関東で一般的な信州系味噌は塩分が13%前後のところ、当社の『江戸甘味噌』はたった5.5%で、塩分が気になる方にもおすすめできます」
ちなみに八丁味噌と西京味噌を融合したような江戸の味噌は、愛知生まれで京都にも慣れ親しんだ徳川家康が命じて作らせたといわれている。
「味噌汁以外にもサバの味噌煮や田楽みそ、コクを出すための隠し味などに使えます。味噌ラーメンにすればコクが深まって、味を化けさせてくれると思いますよ」
新商品の開発にも余念がない。500gのコンパクト版や味噌汁のフリーズドライなど、手軽に味噌を楽しんでもらえるような製品から、肉味噌や味噌漬け、味噌カレーなど加工食品も展開。赤穂義士との縁にちなんだ甘酒や歌舞伎の図柄を用いた味噌など、歴史を絡めた製品も販売している。
新商品開発について、竹口社長は「当社の生命線」だと言い切る。「最近は発酵食ブームであったり、健康食として大豆が注目されていたりという動きもありますけど、日本人の食生活の変化による味噌離れに歯止めがかかりません。輸出は輸出でやっていて、売上は伸長しておりますが、やはり国内市場がメインであることに変わりありませんから。また、味噌は『自分のお母さんが作ってくれた味』を家庭で代々引き継ぐ傾向が強く、なかなか新しいものに手を付けてくれないという事情もあります。当社は歴史のある会社ですけども、まだまだ『江戸甘味噌』は認知が足りておらず、もっと広げていけたらなと思っています」
東東京モノヅクリ商店会に参画したのは、さらに画期的な提案方法を模索し、実現したいからだ。容量やパッケージ、コピーなどを見直し、これまで手が届かなかった客層にも「江戸甘味噌」を送り届けたいと考えている。
「これからも伝統の味は貫いていくつもりです。原料の品質や割合を少しでも変えて『あれっ、美味しくないな』となってしまうのは、絶対に避けなければいけないことですから。もちろん味噌の味も価格帯も千差万別。『これくらいでいいや』と低コストの味噌を選ぶのも自由です。しかし当社としては『やっぱり美味しいものはあるよ』と提案し続け、トライしてもらいたい。『江戸甘味噌』を知り、手に取る機会をいかに増やすかが大事だと思っています」